Rufen Sie meinen Namen
「小日向かなで。」 「え?」 「私の名前は『その人』じゃない。小日向かなで。人の名前ぐらいちゃんと覚えて。」 ―― 多分、僕が彼女を初めてちゃんと見たのは、その時だった・・・・ 「失礼します!」 バンッ! 立て付けの悪い部室のドアが派手な音を立ててしまった。 否、閉まったというより閉めた、が正しい。 この古めかしいドアに無体を働いた張本人、水嶋悠人は普段ならばけしてしない事をしてしまった事を頭のどこかで分かっていながら、そうしてしまった自分の心情も理解していた。 (まったく!榊先輩はっっ!) 勢いよく部室のドアに背を向けて歩き出しながら、悠人はどこか食えないニコニコ笑顔の副部長に頭の中で活を入れる。 (頼りになる事は確かなのにどうしていつもああ不真面目なんだ!) オーケストラ部の副部長でもある榊大地の特徴がその柔軟さであるとわかっていても、どうしても悠人には納得出来ない。 それは悠人が大地と好対照の性格を持っているせいでもあるわけなのだが。 ガツガツッと廊下に響く靴音が耳障りで悠人は眉を寄せた。 (大体、神聖な部室で!なんであんな、い、イチャイチャとっ!) 練習に必要な備品をとりに何の気無しに部室のドアを開けた時の光景を思い出して悠人は眉間の皺を更に増やした。 ニコニコとイチゴの乗っかったスプーンを差し出している大地と、それから。 ―― それから、少し戸惑った顔をしつつ口を開けた淡い茶色の髪の女の子。 (あの人は一体なんなんだ!!) 悠人にとって彼女の印象は一言で言えば『闖入者』だった。 大事な全国大会の校内選抜の日に突然現れて、その日決まるはずだった選考をひっくり返した。 しかもどういうわけか、初対面のはずの大地が彼女に肩入れしてそれが起きたというのだから、オーケストラ部員全体が呆気にとられたのも無理はないと思う。 そんな無茶苦茶な経緯をたどってくるから、よほど気が強くて強引とか、もの凄く上手いとかかと思えば本人は至って地味などちらかといえば大人しいタイプに見えたのだからなおさらだ。 この成り行きに憮然としている響也の隣で困ったような顔をしている姿があまりにもちんまりしているから、話題の中心人物は響也なんじゃないかと勘違いしている部員も少なくない。 だから悠人も彼女本人の問題というよりは大地が何を考えているか分からないという方が先に立っていた・・・・今日、ついさっきまでは。 (あの人は・・・・) 大地の考えたシナリオに何か巻き込まれている転校生だと思っていた。 おっとりしていて目立たなさそうで、だから流されてこの選抜戦に参加しているんだと。 ―― でも 『私の名前は『その人』じゃない。』 「っ!」 不意に耳に蘇った声に悠人は足を止めた。 思わず後ろを振り返るが廊下には誰もいない。 部室のドアも開いた様子がないから、まだ彼女と大地は部室で何か話でもしているのだろう。 けれど今脳裏をよぎったのは確かに彼女の声だった。 それほどに悠人にとっては印象が強かったのだ。 悠人の尊敬する律がかなりの思い入れを持っている全国大会なのに、大会前に練習時間を削るリスクを冒して大地がしようとしている事が読めずに悠人はイライラしていた。 そんな矢先にあんなふざけた姿を見せられて頭に血が上った。 しかしいつものように飄々としている大地からは何も掴めずに、その苛立ちがついでに隣にいた彼女に飛び火した。 最初悠人に姿を見られた時に慌てたように謝ったのも気に障っていたのかも知れない。 とにかく自分が正論だと思っている事をまくし立てて・・・・その時、彼女の声が悠人のそれを切り裂いたのだ。 『小日向かなで』 と。 何を言われたのか一瞬わからなかった。 僅かに遅れて『私の名前は『その人』じゃない』と言われて、悠人はハッとした。 確かに自分はここまで自分の言っている事は正論だと思ってまくし立てていたけれど、肝心の相手の名前一つまともに呼んではいなかったのだ、と。 そして言葉を失った悠人が見たのは ―― 『小日向かなで』という人だった。 大人しい目立たないと思っていた顔立ちの真ん中には、驚く程印象的な若草色の瞳があって今はその奥で悠人の糾弾への静かな憤りが燃えていた。 小さく誰かの影に隠れていそうだと思った姿も、背が小さいだけで背筋はキリッと伸びて悠人の視線を堂々と受け止めている。 何よりもその声が、言葉が、彼女自身の中にある強さを滲ませていた。 それと向き合った時、悠人は自分が初めて小日向かなでという人を見たのだと認めざるを得なかった。 そして初めて向き合ったかなではそれまで悠人が思っていた印象を鮮やかに覆して・・・・。 ―― トクンッ 「?」 胸に感じた小さな違和感に悠人は眉を寄せた。 それは小さな小さな何か。 でもまだ何なのかわからないそれが、妙に悠人を落ち着かなくさせた。 (本当になんなんだ!あの・・・・・・・・) 『小日向かなで』 ―― トクン、トクン 「・・・・・・・・小日向、先輩は。」 ちらちらとよぎるのは、あの静かに悠人を射る若草色の瞳と凜とした声。 そのたびに落ち着きをなくしていく鼓動に悠人は振り切るようと頭を振った。 (気のせいだ。よくわからないけど、きっと何かの気のせいなんだ!) 何がどのように気のせいなのか結論も出せないまま、悠人は必死でそう片付けようとする。 そうしないと何かがおかしくなりそうな気がしたから。 鼓動が早いのも気のせい。 あのかなでの姿が声がリプレイされ続けているのも気のせい。 ついでに、未だに部室から出てこない大地とかなでが何をしているかが気になっているなんていうのも、絶対に気のせいだ!と言い聞かせて。 勢いよく踵を返して歩き出した悠人は律と打ち合わせてある練習場所に向かいながら、もう一度力いっぱい心の中で念を押したのだった。 (小日向先輩のことが頭から離れないなんてことは絶対に無いっっ!) 「ああ、来たか水嶋・・・・顔が赤いが、大丈夫か?」 「気のせいですっっっっ!!!」 「??」 〜 Fin 〜 |